もう体力の限界を超え、毎日ヘトヘト。
アーニーは吠えを防ぐ首輪をし始めてから少しずつ落ち着き始めているけれど、今日の夕方の散歩の時、私がふと油断したときに近くにいた子犬にを吠えて飛び掛かろうとし、全く準備ができていなかった私は芝生の上に倒れ込んでしまった。
この時にまたリーシュを持っていた右手の腕が外れそうになって激痛が走り、しばらくの間芝生の上でうずくまり動けなくなった。
ここまで心身ともに疲れていなければ、危険を感じたときにすぐに準備体制をとることができただろうけど、もう体の限界を超えている状態だったがために頭で危険信号を察知できても体にその信号を送ることができなかった。
アーニーにこういうことが起こるたびに、虚しさや悔しさ、悲しさが込み上げてくる。
これだけ自分の体を犠牲にして精一杯やっているのにアニーをコントロールできない悔しさ、トレーナーを雇えない悔しさ、カールさんから何のヘルプも得られない悔しさで爆発しそうになる。
一緒に犬を飼おう!と言ってくれたから念願の犬を受け入れることになったのに、カールさんは朝から晩まで仕事。怪我をして仕事ができなくなったら時間はできたけれど、歩くことさえできないのでアーニーの世話などとてもできる状態じゃない。
結局一年前に念願の子犬アーニーを迎えてからずっと全て1人で世話をしているのだ。
せめて世話を手伝うことができないのなら、その代わりに経済的な面を全て面倒みてくれるとか、があればいいけれど、お世話も経済的援助も両方なくこのままでは私が壊れてしまう。
彼のサポートが受けれないがために、仕事を休んでまで体を休める時間を作る必要があったり、彼から経済的な援助が受けられないかためにトレーナーを雇う経済的余裕がなく私が怪我をする、というどうも納得のいかない状況で毎日1日1日を必死で何とかこなしている日々。
アーニーの早朝から寝る前のお散歩までの大変なお世話を経験したことのない彼にとっては、私が楽しく簡単にそんなお世話をこなしてる、そんな風に彼の目に映っているのが悔しい。
私がどんなに大変な思いをして毎日アーニーのお世話をしているかなど彼には想像できないのだろう。
それどころか、自分のケアだけでも大変なのにアーニーの世話全てを任され、その上に自分のお世話もしてほしいと我が家に来たがる。
病人だし、今大変な思いをしているのだから助けてあげないといけないと思って家に招待してご飯を食べさせてあげるけれど、私がどんな大変な思いをして無理をしているのか理解できていない証拠だと思えてならない。
アーニーのお世話がどれだけ大変なのか理解できていれば、家に来たいなど言えるはずもない。
彼が来るとなると家の掃除や洗濯、ご飯の準備が追加され、お肉を出さないといけないので経済的負担も大きい。
収入もなく毎日リハビリで精神的にも新大的にも辛い彼にノーと言えない辛さと、言えたときの罪悪感を考えるとやはりノーとは言えないのだ。
彼に愚痴りたいけれど、何も覚えていない上に今の彼の健康状態では何のヘルプを求めることができないのでこんな愚痴をぶつけることさえできない。
アーニーを迎えた昨年の最初の時点で 私の読みが甘かったのがいけなかったのだ。
どう考えても、私が1人でアーニーの世話をしなければいけないのは最初からわかっていたこと。
今日は愚痴らせてくれてありがとう。
アーニーが愛おしくて仕方がないからこそアーニーのことで愚痴ると余計に罪悪感に襲われる。
小さな犬は嫌だ!!とお世話をしないくせに彼が言ったので小さな犬にしなかったけど、もし小さな犬だったら怪我をしたり、トレーニングのことを心配したり、お散歩の心配をしなくて済んだのに。
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